DD512次量産車2~4号機について
 今回のDD51の中で最も製作したかったのが2次試作車2~4号機でした。
1次試作車1号機の発売から苦節20年!念願叶って形にすることが出来ました。こういうのがまだまだ沢山ありますが本当に歳をとります。人生短いよーそこのお若いのと云う気分です。
 さてDD512次試作車2~4号機は1次試作車の1号機と1次量産車の5号機~以降との合いの子の様な形状をしています。
多くのDD51のバリエーションを作ってきた上でこれを作らないでは画竜点睛を欠くことになると勝手に思ってもの。実現出来たのはこれも皆様の御蔭と感謝する次第です。1号機の落成とその後の試験の結果を踏まえ1年後の1963年4月に日立で2号機が落成、その後7月に川車で3号機、新三菱で4号機が落成しています。このオリジナルスタイルは1号機同様床に吊った燃料タンクの容量3000ℓで以後の量産機では非公式側ランボード上に有るエアータンクが床下中間台車の両端に吊って有るのでランボード上には何もないサッパリとしたものでした。直ぐに盛岡に配備され運用に就いていますが1964年3月から燃料タンク容量4500ℓの5号機以降の1次量産車が登場してくるこれらに燃料容量を合わせる為ランボード上に燃料タンクを設置、容量を4400ℓとしています。ここで大失敗!このオリジナルタイプがかえって製作が大変だと考え製作しませんでした。これ増設した燃料タンクを付けなければよかっただけの話、ああ後悔後に立たず。当店ではこの盛岡時代燃料タンク増設後のタイプと500番台登場の1966年以降順次秋田区に移動、エンジンを2000PSから2200PSに出力アップ後のタイプ、更に1976年岡山へと移動した4号機の晩年の姿と3タイプで製作致しました。




DD51 3号機 盛岡時代 燃料タンク増設後 公式側

同じく非公式側



DD51 2号機 秋田時代 公式側

同じく非公式側

DD51 4号機 晩年岡山時代 公式側

同じく非公式側

DD51 1号機 盛岡時代 燃料タンク増設後 公式側。20年前の2000年発売の製品。



同じく非公式側

盛岡配置後は単機又は写真のような重連で使用された。C60、D51との重連運用やお互いに後部補機に使用されたり今となっては興味深い使われ方をしている。雪中行軍の末、奥中山の三重連狙いで待ち構えていると、靄っとしたガスの中からDD51が先頭で顔を出し、思わずシャッターを切らなかったという話を聞きます。蒸気機関車の仇役としてDD51が嫌われていたのがこれですが今となっては貴重な記録であの時シャッターを押しておけばよかったという話も聞きます。



盛岡時代のサイドビュー。DD51登場初期の頃は寒地型暖地型という括りはなく一刻も早く無煙化を達成しようという事で盛岡に配備されたにも関わらず最初は一切の寒地対策は施されていませんでした。空気清浄機は原型の一連型、ラジエーターグリルも原型タイプ。デッキステップは一体型。手摺はストレートな形状。

秋田時代改造後の姿。空気清浄機が大型化、ラジエーターグリルは一般形へと交換。デッキステップは東北地方特有のスタイルへと改造。ATS車上子は中間台車から2次側床下へ移動。動輪はスポーク車輪からプレート車輪へと交換。手摺は基部で折れ曲がった形へと改造されている。

4号機岡山時代のサイドビュー。ステップは一体型へと戻っている。

盛岡時代

秋田時代 機械室窓がオレンジ窓で塞がれている。

岡山時代 デッキ手摺に大きな誘導手摺が追加されている。

奥が盛岡時代、手前が秋田時代。

サイドフレーム及び床下は量産型のDD51とは全く別形態となっています。ATS車上子は最初中間台車に設置されていました。



秋田時代の床下ディテール。ATS車上子は2次側へ移動しています。

盛岡時代非公式側。追加された燃料タンクの給油口がキャブの両側に見えます。

秋田時代非公式側。キャブ下に点検ハッチが追加されています。

岡山時代非公式側。機械室のオレンジパネルが元に戻されています。




秋田時代公式側。燃料タンクを中心に見る。DD51の床に吊られた燃料タンク容量は3000、4000、4500ℓと3つのタイプに分かれます。

同じく非公式側を見る。1~4号機の床下燃料タンクは3000ℓ。




中間台車にブレーキ装置が無いDD51 5~547の燃料タンクは容量4500ℓ。



548及び801以降の中間台車にブレーキ装置を装備したタイプの燃料タンクは容量4000ℓ。



中間台車TR101(DD51 2~4)。

中間台車TR101A(DD51 16号機)。

中間台車TR106(DD51 1193)。


DD51初期型3号機とSG付最終ナンバーの1193号機の並び。模型の世界ならではです。