DD51の模型にまつわるお話と模型製作についての色々
私がDD51と云う機関車を初めて知ったのは小6の時、父親が買って来た誠文堂新光社刊の1967年度版機関車スタイルブックでそれには秋田で撮られたブドウ色の1号機の小さな写真が載っていました。他のDF90,DD91,DD12等のディーゼル機関車の写真等も小学生ながらその特徴的な形に魅せられこのスタイルブックがボロボロになるまで毎日眺めていた記憶があります。これらの機関車を50年近く経ってから製品化しして行く事になったのも三つ子の魂もなんとやら・・・・です。そしてその後間もないころに発売になったのが鉄道模型社のDD51でした。当時の価格は確か8500円、親父の購入先はもちろん南池袋の丸正堂です。今の視点で見れば52年前の製品です、それは拙い部分が多々有って当然ですが色々なジャンルにパイオニア精神でチャレンジしていた鉄道模型社が最初にDD51の製品化に着手したのは今考えても、いや今だからこそ本当に凄い事だと思います。このDD51のモデルは当然の事ながらオール真鍮製の車体にドロップ製の台車、ダイキャスト製の密閉式ギャーボックスを使用した当時の日本型モデルとしては破格の製品でした。モーターは後にサンゴさんがEF53等に使ったあの大きな両軸モーターでした。走りは滑らかで運転会ではつぼみ堂のEF65 500番台と共に良く目立ちスター的存在でした。模型社はその後1970年代になるとキャブと云う名称になり経営形態が変わったのか私には知る由もありませんが商売に走り過ぎた感が強くなりました。そのキャブブランド時代にもDD51を発売しています。サイドフレームを情けないほどひずんだ樹脂、プラにしては凄く柔らかい材質でそれを確か床に開けた穴に足を差し込み焼きごて固定したものでした。大量生産を狙い簡略化を図った結果でした。ここにDD51の完成品模型を作る上で後のメーカーが苦労する原点が早速現れています。ただでさえ組み立てに精度と手間を要するキャブ、ボンネットの組み立てに加え更にサイドフレームを走り回るコックや色々な小さな部品をどう再現するかと云う事です。このモデル、最初のDD51にあった今でいうところの模型社の模型独特のヴィンテージ感のかけらもないものでした。これらの製造を担当したのは後に京都模型向けにキハ40,47やEH10、一連の阪急電車をOEMで製作した岡谷に在ったホーワさんでした。DD51を製作する上での問題を一挙に解決しようとしたのがエンドウさんのダイキャスト製の製品で廉価な普及品として大いに作られたものと思います。しなのマイクロがトータルキットと称して(正確にはコンプリートキット)を発売したころには実機の方の製造はもう終わりかけていました。

しなのマイクロキット組立品



まごころ工房 故大川氏製作によるムサシノモデル特注品 しなのマイクロのDD51キットをここまで見事に組み上げるにはかなりの腕前が必要です。

しなのマイクロの製品は当時からその精密さを謳う割には造形のアバウトさ(キットだから言い逃れが色々と出来る)とギャー精度の悪さとその方式から来る走行の悪さ、及び半田組み立ての難しさからあっという間に陳腐化してしまいました。どれだけのファンが組み立てることが出来たのでしょうか?。当時はまともな資料など無い中大体のおおまかな印象で製品を作っていたメーカーが多かったと思います。1980年代に入り天賞堂さんが完成品とキットを、同時期にサンゴさんがキットを発売、DD51で大いに盛り上がった時期が有りました。

天賞堂初回製品


1982年発売の一次製品はボンネットの凹凸をプレス加工ガラ絞りで表現している。サイドフレームはディテールを含めホワイトメタル製

このモデルのプロテクターは後加工で取り付けている。プロトタイプは600番台後期から1000番台初期、一体型ラジエーターグリルで扇風機カバーが付く前のもの。

天賞堂2次製品


1983年発売の2次製品はボンネットの凹凸がガラ絞りからエッチング表現へと変更された。このモデルはボンネットサイドを別貼りとし立体感を強調している。オリジナルの形はラジエーターグリル2分割タイプでした。プロテクターは後加工によります。

下廻りは1次製品に同じ

天賞堂さんの完成品は真鍮製としては模型社、キャブ以来の物でDD51初めての高級製品でした。2回生産され1回目はボンネットのディテール表現をガラ絞り、2回目のものはエッチング表現となりました。側台枠はホワイトメタル製の大きな部品を厚手の床板に取り付けたもので立体的表現でしたが真鍮製とすることは技術的にもコスト的にも困難なものだと思われました。

珊瑚模型店製品キット組立品

1982年に発売となった珊瑚模型店のキットを組立加工の上、磨き上げ仕上げしたモデル。

運転室前面窓にプロテクターを加工の上取り付けている事から五稜郭の600番台初期のあたりをプロトタイプとしてる。但し機械室窓の横寸法が後期型のもので短くなってしまっているというエラーがある。サイドフレームのディテールは全て後加工によるもの。

サンゴさんのキットは当然オール真鍮製ですが側台枠の中を走るパイピング類や小パーツは自作せざるを得ません。まだ時代が追い付いて来ていません。

KATO製品

1980年代半ばに登場したのが日本型16番として初めての本格的インジェクションモデル。良く走り良く牽き廉価で一家に1台はおろか2台、3台大ヒットとなりました。写真のモデルは初発売時の製品で35年経っても全く問題無く良く走り良く牽いてくれる孝行息子のような製品です。

一つ二つディテール上の難を云えば機械室窓の横寸法が短い事。

そしてその後カトーさんが日本型製品として初となるインジェクションモデルを発売、35年経った今でも走行は一級品で一家に一台的大ヒット商品となりました。うちの親父さんも2台配備、ストレスのない走行は何時も最高です。出来ればボディだけでも少し手をかけてリニューアルしてもらいたいと考えているファンは多いと思います。

エンドウ製品

JR化後北斗星が大人気となった最中に登場した製品。ボンネット及びキャブは真鍮製。ランボードから下は全てダイキャスト一体成型によるモデル。

家の親父が2輌購入。カツミさんの北斗星客車を牽かせてご満悦でした。

国鉄の民営化、青い北斗星色のDD51が登場し人気者なったバブル絶頂期の頃発売となったのがエンドウさんのDD51でした。1000番台後期型で人気の北斗星色と一般色で発売、同時期に発売となったカツミさんの北斗星客車共々模型ファン憧れの存在でした。ボディは真鍮製でランニングボードを含む下廻りは精密ダイキャスト製でかなりの高級品でした。ここまで2000年以前発売のDD51の製品化の歴史を個人の感想ながら記してみました。

 
ムサシノモデルで最初にDD51を作ろうと企画したのは試作1号機でこれはDD42、DF90、DD91と同じ試作ディーゼル機関車シリーズの一環として出て来たものでした。勿論機関車ガイドブックの刷り込みも有ります。既に異色のDD54、小型の制式機DD16、DD13後期型を製作していましたが特にDD16では16番模型で初めて国鉄のボンネット型ディーゼル機関車をほぼ完全に再現したという自信がありました。各種のプロテクター類を取り付けるようになったのもDD16からです。しかし国鉄の本線用制式機を作ることなどまだまだ恐れ多く考えもつかない中、毛色の変わった試作機と云う事とちょうど横川鉄道文化村が開園、DD511号機も展示されたことで勢いがついたということも有りました。取材は鉄道文化村の開園直後の1999年、ピカピカに化粧直しされた美しい1号機、時は晩秋の小春日の中で日が傾くまで機関車にとり付いていたことは一緒に行った父親の事も含め懐かしい思い出となっています。ちょうど20年まえの記憶です。この1号機の最初の取材の後で一つ疑問が持ち上がりその翌年の5月弟と二人でもう一度文化村へ取材に出かけました。その疑問とはボンネット上のファングリルの大きさに対する疑問でした。









DD
511号機ファングリルの実機の図面寸法と比べ撮影した写真に何となく納得出来ないものが有りピッタリと合うかもう一度実地に寸法を測る事にしたのです。何故こんな事になったかと云うと他社のDD51製品のファングリルの大きさが余りにも小さくどういう事???と云うわけです。結果は図面通りでした。一応1号機ということで量産機との違いまで詳しく調べる事はしませんでした。この1号機は2001年6月に発売になりました。


ムサシノモデル製品DD51 1号機 全盛時代


2001年発売の試作1号機のモデル。ムサシノモデルのDD51はここから始まりました。諸先輩メーカーの製品を研究し尽くした上に満を持してプロデュースを行ない発売した製品です。発売以来もうそろろろ20年が経とうとしていますがこれ以上ものは今でも望むべくもありません。

この度は念願叶い2次試作車2~4号機の製品化が実現致します。

この後EF66、DF50と製作して行くうちに多少自信も付いてきたことと廻りからも次はDD51の量産機の製品化を是非との声もあり又その頃人気のあったDD51745号機の存続が危ないからという理由でDD51の量産機の製作を行うことになりました。当時は今と違って鉄道車輌の細部まで事細かく詳しく解説説明してくれるような刊行物は皆無で(DF50は特別な例でした)数日札幌駅に張り付いて出入りする北斗星色各号機の写真を撮ったり745.842号機の取材を行い、又ある人の好意で大きな扇風機カバーの寸法を採らしてもらったりと準備を進めて行きました。ここで1号機の時に疑問を持った他メーカーのファングリルの小さすぎる謎について調べていくうちにその出処を見つけました。と**ん誌の模型化図面がその出処で何の疑問もなくその図で寸法を決めて作ってしまったと云う事です。なーんだ、大メーカーでもこんなもんです。どこも実機の取材などしなかったのでしょう。


今では考えられない事ですが。そしてDD51の図面も完成、メーカーではサンプルモデルから量産サンプルへと順調に進行してゆきました。しかしここで大きな問題に突き当たります。最初745号機から発売する事になり量産品の半田組み立てもほぼ終わり塗装済みのサンプルが1輌出来てきました。745号機は前面窓にプロテクターが付きます。未塗装サンプルでは気にならなかったプロテクターと屋根庇板の間のスペースに実機には有るボリューム感が無いことに気付きました。模型では屋根板の厚みがスケールより増すので高さをスケールで作ると窓の上のスペースが狭くなります。プロテクターも実寸法より多少大きく作らなければ強度が全く保てません。そのプロテクターを付けると窮屈なスペースに無理に取り付けた印象となります。









結果DD51の顔にあたる部分が実機と異なり力強さの無い表情になってしまう事になりまた。そこで0.15~0.2mm程スペースを稼ぐべくキャブの屋根のRを再検討の上いくつかのパターンを作り検討した中から最も良いRを選びその図を基にした新しいキャブを製作、既に半田組み立ての終了したボディのキャブを外して付け替える荒行事を行いました。しかしこの頃AJIN社では折からのウォン高に加えメインインポーターであったアメリカのオーバーランド社の支払い不履行等の問題で事業を縮小するのではとの噂が広がり社員の心が浮足立ってしまいました。結局745号機はDD51の中で一番後回しになり予定より2年遅れの2008年3月発売となりました。この間AJIN社もソウルの本社工場を売り大きなリストラを行いビルの一区画に本社を移転しています。この頃私もセッテが原因で親和貿易を解散させ新しくサムヒュントレイン社を作った頃で大変厳しい時期でした。この最初のDD51はその組み立ての難しさからメーカーのAJIN社にとって今までになく困難で大変苦労が多く利益が出ないばかりか赤字になってしまったプロジェクトでした。最後まで投げ出さないで仕事を貫徹したAJIN趙社長でしたがそのAJIN社の真鍮モデルの中心メンバーがATM社を立ち上げその経験がさらに進化させ今に至っています。そしてこのDD51はそのまま色々とコピーモデルが後から出ることになります。以上大まかではありますがDD51製品の模型化の歴史でした。


ムサシノモデル最新製品 JR西DD51 1121号機出雲牽引機



これが最後の生産という事で下廻りのディテールを一新致しました。今までの製品との整合性については横から見たのでは分かりませんという事で・・・・・。

DD51モデルの完成形と云って良いと考えます。