瓢箪から駒が出る
人の人生には後から考えても糸と云うか縁に操られていると言うしかない様な本当に不思議な出会いが有るものです。私の場合は韓国で仕事をするきっかけがそうでした。それは今から27年前の1993年10月の終わり頃の事でした。当時ムサシノモデルはまだアメリカ型真鍮モデルの販売がメインで毎月の月刊とれいん誌の広告に使う製品を背中のリュックに入れて自転車で月一、江古田のとれいん編集部へ通い広告の写真に使う製品の写真を撮影してもらっていました。その待っている間にとれいんのギャラリーで松謙氏と色々あれやこれやと模型談義をするのも楽しみの一つ。ちょうどこの時、編集部に江古田の駅から電話があり紹介してもらいたい製品を持ってきたので駅まで迎えに来て貰いたいとの話。そして対応に当たった西原君が江古田の駅から連れてきたのが60代半ばの男性でした。持っていた包みを解き箱から取り出したのはOゲージの都電荒川線の8500形です。この男性ことナローモデルの松本 一 氏でした。そばで様子を見ていた私は自己紹介の上でその製品を卸していただけるかものかどうか質問してみました。すると松本氏、眼鏡越しの上目遣いで少し顔を寄せてきて「全部売れていますがいいですよ」との返事。それ以前に神戸市電700形のOゲージモデルをどこかで発売したことは知っていてその製造メーカーが韓国AJIN社であったことも知ってはいました。当時AJIN社はアメリカのオーヴァーランド社と組み実機が売り出し中だったハイテックディーゼルロコや多くのローリングストックを製作し、もう一方の雄サムホンサと共に世界のブラスモデル2大メーカーとなっていました。 問題はこの最初の出会いから確か1週間後の日曜日の閉店間際のことでした。ナローモデル松本氏がもう一人の男性を伴って来訪して来ました。この男性は後に福山モデルを興す福山氏で私の店ではジャンク市の時に必ず現れるのでジャンク屋さんと呼ばれていた人物です。松本氏はこの時アメリカ型のOゲージモデル、恐らく韓国FMモデルがPSC向けに製造したGPディーゼルを持参、買いませんかと持ち掛けて来ましたが当然お断りしました。その後Oゲージ都電8500についてひとしきりの会話の後私は一つの質問をしました。それは本当に一瞬の出来事でした。その質問とは、「何故一番人気のある都電6000形を作らなかったのですか?」と。松本氏は眼鏡越しの上目遣いで思いっきり顔を寄せてきて言いました。「それなら、あなたがやりますか?」と。私は言いました「やりますよ」と。これだけ、これが今に繋がる最初の事でした。あの時、「いゃー」と言葉を濁していたなら確実に今のムサシノモデルは有りません。一瞬、線と線が一点で交わった瞬間です。

ムサシノモデルの韓国での仕事の第一号となつたOゲージ都電6000形


当時都電6000形の6152はまだ都電荒川車庫にあり製品化する事が決まった後、直ぐに取材を申し込んでいます。

取材はピットに入り下廻りを撮影、ビューゲルの構造を知る為に屋上に昇りビューゲルを前後に振って動作を調べたり一緒に行った父親の事も含め今では良い思い出となっております。
 

当時大阪のツカサさんでは大阪市電3000形や阪堺電気モ121等、目の覚めるような出来栄えの製品が製作されていて憧れの存在でしたが私たちの世代にとって一番懐かしい時代の東京都電は銀河モデルさんが6000形を発売したのみでした。私も国内で6000形をキットの形で製作したいと考えましたが小さい割に金が掛かりすぎると当時協力してもらっていた業者さんにあっさり断られた記憶があります。Oゲージ都電6000形は韓国での仕事と以後に続く16番都電シリーズの接点となった製品です