2018.8.3

Souvenir2

昭和三十年代、黄金のトライアングル、東京の模型店巡り

私の父親も模型店を始める前は機械工具店を経営していましたが私が生まれたばかりの頃はまだサラリーマンで八丁堀の鉄等の金属資材を扱う会社の営業担当でした。東京駅丸の内に有った製紙会社にも営業で訪れていましたが、その会社の資材担当の方Tさんの息子さんへと贈った鉄道模型のセットに息子さんではなくその父親ご本人が魅了されることになってしまいました。その後その方がお亡くなりになるまでの永い年月、父親の大切な友人としてのみならず、私達家族全員が親しくお付き合いさせて頂く事になりました。さて、お話は1950年代後半にもどります。営業でTさんのもとを訪ねるとTさん何時も、ちょっと外に出ようと父を誘います。先ず訪れるのは水道橋とお茶の水の間にあった、そう鉄道模型社です。当時は都電が縦横無尽に走り回っていた東京のど真ん中。以下父親の話です。鳥飼さんも若く店内には後で中西公房を興す中西さん、ひかり模型の比護さんが店員さんでおられ、東大の角帽に学ラン姿の水野さん(マイクロキャスト水野の水野さんです)がバイトで店内におられたそうです。又鳥飼さんのご母堂もいらっしゃったという話でした。皆、私の大先輩にあたる錚々たる方々です。そしてお次は神田須田町のカワイモデルさんです。カワイさんのTMSの広告で今でも懐かしいなあと思うのは都電の路線が集中していた地図のイラスト。当時の子供の行動範囲は以外と狭いものでしたが私が中一の時、初めてカワイさんに行った時のことは一生忘れられないものです。アンチモニー製の床下器具を買いに行ったのですがお店の前に行ってみると、店内はお客さんでいっぱい何てもんではありゃしません。店の中でそれは凄い押し競まんじゅうをやっているような状況で店内に入るのを一瞬ためらってしまう程でした。それでも意を決し中にとびこんでいったのを良く覚えています。私の父親の頃はどうだったのか今となっては知り得ませんが時は昭和30年代初頭のこと.カワイモデルの永遠のお姉さんである阿南さんが本当に本当に美しいお嬢様であられた時代です。思わず夢想してしまいますね。最後は天賞堂さんです。時は3丁目の夕日のもろ時代です。一般の庶民はまだまだ十分に貧しかった時代。銀座の柳にPCCカー5500形や旧塗装ウスバカゲロウ色の7000形初期車等の路面電車が行きかう通りは現在の巨大なブランドショップが立ち並び外国人観光客の間を縫って歩くような今とは全く異なる風情ある特別な街であったと思います。天賞堂さんは当然木造の二階建てのお店で後の御大、三浦さんが店員でおられて良くオマケしてもらった父親は自慢話をしていました。当時のお父さん達は大体みな生活するのもやっとの時代、日本型の完成品もほとんどなかったとおもいます。(まだ三線式O番があった時代)。当時の平均月収が一万円に届くかどうかという時代。鉄道模型社の\4000何がしかのC62をお父さん達は指をくわえて見てるよりありませんでした。模型店を廻ってささやかなパーツを購入しコツコツと模型を自作するより他に無い時代です。でも何だか心は豊だったのではないかと思ってしまいます。戦後十年程しかたっていません。厳しい戦争の時代を生き抜いてきた人々です。東京の模型店巡り、黄金のトライアングルでした。

その時代に私の父親が作っていた模型。ムサシノモデルの原点がここにあります。

EF53車歴約60年。台車メインフレームとパンタは模型社のパーツを使用。

先台車とパンタ以外はフルスクラッチのEF58。これも車歴60年。当時の最新鋭EF58がまだ模型社で製品化する以前のモデル。

動力装置には苦労した後が見受けられます。トルクの無いやたら電流を食う巨大な棒型モーターを使用。