2018.6.23

Souvenir1

クラウス17号機とEF62の模型と丸正堂の思い出

もう50年以上昔の話です。環状7号線の姥川橋交差点から十条駅方面への道を、百メートルと少し入った当たりの左側に、目印の石屋さんの手前(どっかで聞いたことがある文言、あそこもお寺の横に宇宙堂と云うお婆さんがやっていた模型店が有り子供の頃はプラモデルで良くお世話になりました。)に丸正堂と云う模型店がありました。その頃には当時としてはそこそこの模型を集めていた父親の模型の出処で、連れていってもらうなど以ての外、大体何時模型がお家にやってくるのか全く誰にも分かりません。お父さんは皆、今も昔も苦労しています。我が家の家業は機械工具店で板橋の今の場所と埼玉の小手指に店が有り母のいとこや、父の親戚など従業員がいました。この丸正堂が豊島区の南池袋に引っ越すことになった時は会社の車を使って引っ越しを手伝ったそうです。1967年6月、小六の時、祖母が亡くなりショックを受けていた私に父が初めて買ってきた模型を見せてくれました。模型社のED17 24号機とEC40でその箱の図柄と共に模型の素晴らしさに目を見張りました。

家には多くの模型が父親手作りのケース中に鎮座していましたが買ってきたものを箱から直接出して見せてもらったことが新鮮な驚きとなり模型の虜になるきっかけになりました。そしてその年、南池袋に移った丸正堂(前年に一度行ってキハ02を買ってもらっている)に連れて行ってもらうことになりました。父親と話をしていた丸正堂の親父さんがやおらカウンターの向こうから出てきて模型の陳列ケースを開け茶色い電気機関車を取り出しお勘定は何時でもいいですからと箱にしまい新聞紙で包み始めました。父親の方はへっへと笑いながら新聞紙の包みを受け取ります。父親が模型を入手する現場に初めて遭遇、この機関車こそ当時一万一千円した超高級品、天賞堂のEF62でした。大人の世界は小6の子供にして深いものが有るのねと理解した次第。このとき丸正堂の親父さんは私のことを坊ちゃん、坊ちゃんと優しく言葉をかけてくれていました。その翌年中一の時、池袋西武になんでも明治時代の古い蒸気機関車が陳列される(売りに出される)というので友人の田沼くん、渡辺くんと三人,徒歩で見に行く事にしました。この機関車、クラウスの17号機でまさにくろがね色という印象で背が伸びる前の子供の目には凄く大きくどっしりとして見えました。この見学の後、丸正堂まで足を伸ばしましたが、この度は前回の「おぼっちゃま」から打って変わり三人揃って「このガキが」呼ばわりと変化。大人の世界とはこんなものなのねと、しかし子供はこう言うことは一生忘れないものです。模型店の親父としての戒めにしています。親父がムサシノモデルを始めたときは問屋さんを一緒に回ってくれたり助けてもらいました。この後ご夫人がお亡くなりになり(静かで優しい方でした)店が成増に移ることになりましたが詩吟の天明流という看板を掲げお客さんが店に行くとよく唸っていたそうです。うちの親父さんも詩吟をやっていたので何回か来訪、二人でデカい声で吟じていたのをじっと耐えていた記憶が有ります。それから暫く経ち、1985年に家を新築した後私の留守中に新しくなった店を訪ねてきたそうです。その時にしみじみと褒めてくれた云うのが本当に私もしみじみと嬉しかった事を思い出します。それが丸正堂の親父さんとの最後になりました。鉄道模型趣味に載せていた広告のキャッチコピーが「技術の店」でじっさい店のカウンターに工作台が有り何時もお客様に頼まれた模型の加工をしていました。私にしてみれば模型店の原点がここにあります。丸正堂の親父さんはシュパーブでも模型社の製品でも未塗装のものを仕入れ自分でいろいろな加工を行い塗装してお客さんに販売していました。その意味で草分けといって良いのではないでしょうか。